葛飾北斎 (1760~1849)
勝川春章の門人で狩野融川にも学ぶ、初名は春朗だが宗理、可候、画狂人、為一など多数の号を使用した。浮世絵版画も良く制作したが狩野派、土佐派、淋派、洋風画、漢画など修得して一流となる。特に風景画分野開拓に功績をあげ、画格と作画領域の広さは特筆される。
監修 渋井清 (1899~1991)
昔の永谷園のおまけカード「富嶽三十六景」です。
現在では東京都中央区日本橋にある。昔は、この日本橋が江戸の中心地であり、日本の中心地でもあった。東海道をはじめ、五街道の里程をはかるのは、この日本橋のまん中が基本であった。日本橋は慶長八年(1603)に徳川幕府が江戸に開かれた時から建てられている。画中では北斎の描いた日本橋の橋上では身動きもできぬばかりの人混みである。はるか見えるのが富士であり、橋の両側には江戸の繁栄を物語るか如く土蔵が建ち並んでいる。大江戸の泰平・楽日をまずみせた作品といえよう。
日本橋通り室町二丁目と三丁目の両側の大部分を占めていた。呉服・糸類の見世、三井は、現金掛値なしを看板として栄えていた。今日の 三越本店の前身である。当時江都駿河町といえば三井の見世を意味するほどであった。外には大丸、白木屋などもあったが、井桁に三字の三井が一番の金満家であった。富士と凧と屋根職の働く姿がいやが上にも江戸の空を明るく大きなものに見せている。
東京都台東区。浅草にある本願寺は京都東本願寺の別院で、現在も東京の名所として名高い。画面右半面に本堂の屋根瓦を大胆なまでに大きく取っているが、この破風の三角形と富士の三角形とを対照的に構成させることによって遠近感が強められ、かつ空の拡がりが増している。凧が空高く悠々と舞って爽快な印象を受けるのもそのためである。
東京都千代田区神田駿河台。「江戸名所図会」によると、その名の由来を「この所より富士峰を望むに掌上に視るが如し。故にこの名ありといへり」とある。駿河国(静岡県)では富士はどこからでも近くにみることができた。川柳にも「富士山をいつける(載ける)台は江戸にあり」とうたわれた。江戸城を南下に見るこの大地は神田川を改鑿の残土を盛ったものか、ここらあたりから、小石川・牛込・市ヶ谷にかけて旗本の屋敷が多かった。
東京都墨田区。本所と深川は、少し前までは北と南にはっきり分かれていたが、今では本所は墨田区。深川は江東区となった。今でこそ移動させられたが、深川には水利によって材木問屋が多く、木材置場も多かった。画中に”西村置場””馬喰町二丁目角”などと記されているのは、この「富嶽三十六景」が馬喰町二丁目の西村与八、つまり永寿堂が版元であることの広告である。積み上げられた材木、立てかけられた材木の多いこと、火事の多かった江戸で木材の需要が多かったのは想像に余りある。
東京都江東区。万年橋は小名木川にかけられた橋で、深川常磐町と清澄町を結び、松平遠江守の屋敷や柾木稲荷がこのあたりにあった。西洋画法の透視遠近法を取り入れた北斎は彼独自の解釈をして巧みな構成によって奥行表現に成功している。高い橋下のかなたに富士をくっきりと描いている。材木運搬のために橋下を高くかけたところから自然と「高橋」の名もできたのであろう。
東京都江東区城東局、放水路に近い羅漢寺には五百の羅漢があって有名であったが、「総門の内左の方、天王殿にならぶ」3階建の高楼三匝堂も江戸の市民を喜ばした。栄螺堂ともいわれ、さざえの殻のような螺旋状の階段があって、百観音を参拝して行くとこの絵のような見晴台へと至るのである。高きにのぼることは、東洋では殊に好きである。この三階建て螺旋状の建物は、やがてあとかたもなくなったが、明治になると、浅草にパリのエッフェル塔をまねた「十二階」ができた。
東京都渋谷区神宮前。竜眼寺という禅寺があり、庭の”笠松”という名松が有名であった。枝が三間ほど伸び、かつ拡がって笠に似た形からの呼称である。「江戸名所図絵」にも、この庭のようすが詳しく描かれている。昔は、この竜眼寺の境内はたいへん広く、下を流れる江戸の都人士が遊楽に出かけたらしい。現在は渋谷駅の川に沿っていくと、渋谷というよりも青山に近いオリンピック宿舎(今のコープオリンピア)の付近に寺跡があるが、円座の松はもとより姿もなく、ただ、たくさんの敷石のみが荒れ果てて、昔の全盛時代を偲ばせている。
東京都渋谷区。隠田は穏田と書く。新宿御苑あたりから渋谷東横百貨店の下を流れている渋谷川の川沿いに今も穏田神社 はあるが、今日では水車もなければ、取り入れる稲田もない。与謝野寛と晶子とが始めて家を持ったのもこの渋谷川沿いのところであった。北斎は、水の表現に並々ならぬ関心と努力を払った画家である。「富嶽三十六景」の作品に描かれた水を注意してみると、それがわかる。
東京都目黒区。下目黒といっても現在のどのあたりかはっきりしていないが、おそらく当時下目黒一帯はこのような丘陵地帯であったのであろう。このあたりも田畑が多く田舎であった。わらぶき屋根の百姓家、野良仕事に出かける男にしても、まったくの田舎である。のどかな田園風景画として優れた作品といえよう。画中に二人の鷹匠が描かれているが、鷹狩りの地としても知られていたのであろう。おそらく、 目黒不動の広い境内より、少し奥の方であろう。
東京都文京区。「江戸志」によると小石の多い小川が幾流もあったためその地帯を小石
川と名付けた記述してある。小石の多い川の意味で”礫川”とも書かれた。またこの付近
は一帯に台地が多く、その台地にある建物に在って、南方、富嶽まで、江戸一帯の雪景
色の旦のすがすがしいありさまを鑑賞している図である。江戸の低い家々は、雪一色に
おおわれて、まるで北極圏でもあるかのように見えたであろう。
東京都台東区蔵前3丁目。幕府の御厩があったことから名付けられた今の 厩橋。そこから西両国の本所石原に渡す渡し船があった。人は厩の渡しと呼んでいた。夕日が沈み西の空が茜色に染まり始めると、紺染の色紙で三角に切ったように富士はその影繪姿を現わす。あまりの美しい自然の姿にうっとりする。それぞれの思いを乗せて、船はゆっくりと人々を向こう岸に運んで行く。
東京都足立区。 鎌倉時代、藤原光俊は”庵崎のすみだ川原に日はくれぬ 関屋の里に宿やからまし”と歌ったように、この地は古くから有名であった。広重の絵本にも「木母寺より十町はかり東北にあれたり ここは東都の名所にして古へよりその名高く春秋の眺望には遊人騒客ここに遊びて一時延期のばとなすめり」と記している。ただしこの絵からは歌に歌われるような叙情性は感じられず、疾風の早馬の蹄の音が聞こえてくる。
東京都中央区。そのころの佃島は、隅田川が海となる突先きにある小さな島であった。いろいろな形の船がたくさん描かれているのが面白い。「江戸名所図会」によると、その昔摂州佃村から召された漁師たちがここに住み着いて生国の名をとって佃島と名付けたとある。白魚を将軍家御用として献上したとも言う。行き通う船で当時の佃島がいかにも、もう川ではなく、海に入っている孤島であったという感じがよく出ている。
武州とは武蔵国のことである。武蔵七党などと号して、古くから土着の豪族がいた。鎌倉から江戸時代にかけて、これらの豪族のなっとくをえて江戸文化は栄えていった。隅田川上流にかけられた 千住大橋 を渡って奥州街道・水戸街道・日光街道へと旅人は行った。ここには、水門だけで、長い大橋は描かれていない。 釣人のほかに、馬子がのんびりと家みやげにでもするつもりか、一匹の亀を馬の手綱にゆわえつけている。 のんびりとした風景である。
千住は、明暦の大火以後、吉原がここに移されてから、新吉原三百年の栄華が江戸文化を代表する如く繁昌した。富士の下左方に多く見える屋根が新吉原の花街である。どこへ行くのか、鉄砲方の行列が通っている。各人物の視線を観察してみるとおもしろい。富士を見る者、稲田を横切るあぜ道で休んでいる百姓女や、素朴な草葺き屋根の家や小屋まで描いている。その頃の千住は、ほとんどこれから先の埼玉と同様の、いなかであった。
今いう「御殿山」の品川である。日本橋を基点とする東海道五十三次の最初の宿駅で、江戸入りののどのような高台が品川御殿山。桜の名所として名高く、江戸市民にとっては桜見の楽しい場所であった。幕府にとっては軍事的にきわめて要塞の地であり、たまには鷹狩りなどにも使われ、それで品川御殿の名があったのだろう。桜の頃には一般に開放されたものか、黒船渡来以前ののどかさが十分にうかがえる。桜に飾られた遠見の富士もおつなものであると北斎は言いたいのであろうか。
東京と川崎の境を流れている多摩川。玉川の名はほかにもあって、古くから和歌にも歌われており、六玉川などと、ちょうどいい数の玉川は、浮世絵の好画題となった。江戸の多摩川は浅く、流れは速い。今、一艘の舟は竿をあやつっていくのは大変だ。川面には霞がたなびき、はるかに富士がそびえているのが見える。手前の岸を一匹の馬が淋しげに引かれていく。この絵は、江戸から見た最も南の富士だから、江戸を離れるに当たって、どうしても最初に画かざるをえない好画題である。
この絵をみたフランスの作曲家ドビュッシーはあの有名な交響楽曲「海」を作ったと言われている。力強い。また、それほど有名な絵である。自然と人間の劇的な抗争、それを富士は泰然とみつめている。飛沫を散らして浪は船もろとも人間をも飲み込もうとしているかのようである。 このシリーズが出来上がる前から、この「浪裏」と「赤富士」が先にできていてそれが「富岳三十六景」に発展していったものと、私は思っている。
神奈川県横浜市。 さあこれから江戸を離れて北斎は富士を画く旅に出る。この「程ヶ谷」図は、最終図かもしれない。現在このような松並木はほとんど残っていない。江戸時代。徳川幕府が道路を整備し松並木を植えて旅人の往来に役立てていたのである。虚無僧、馬で行く者、かごで行く者、東海道の旅の情緒がよく出ている。しかし、これは、どうみても足で歩いた「富嶽三十六景」の帰り道のように私には思える。
相州とは相模の国。鎌倉の稲村ヶ崎より腰越までの海岸を 七里ヶ浜と呼び、画中では波が打ち寄せている所に当たる。腰越の漁村の彼方に富士があって、左の端に描かれているのが江ノ島である。緑と白のほかはほとんど藍摺りで処理し、爽快な印象を与えている。この作品は天保二年に刊行された広告文の一説に言及されているため「富嶽三十六景」の刊行年をこの頃と推定する資料にもなっている。
江ノ島 は、江戸中期弁才天参拝をかねた物見遊山の人々で大変賑わった島である。潮の引いたときには江ノ島へ徒歩で、満潮時には船で渡った。江ノ島詣では浮世絵の好題で、喜田川歌麿、鳥居清長等、多くの絵師が描いているが、いずれも美人が中心で、北斎は人物を点景とした風景画として制作している。ただこの位置からは富士がこの場所には見えない。北斎は、向かって右側に小さく描いている。
神奈川県平塚市。東海道五十三次の平塚の宿から大山へ行く途中の街道にある。大山、一名雨降山ともいわれ、頂上には大山阿夫利神社があり、江戸中期、大山詣でが盛んに行なわれた。親子連れで橋を渡ろうとしている者がそれで、白衣振鈴の姿をして参詣するのである。大山詣でをあてこんだ行商人も描かれており、その一人、右端の男の背には山形に三つ巴の紋(永寿堂商標)がコマーシャルされている。
梅沢左は梅沢在の誤刻である。「東海道名所記」に「梅沢・茶やあり、入口に東の明神とて高き山あり」と記され、現在の 二宮町あたりをいう。梅沢庄、つまり梅沢の周辺から見た富士を描いたのがこの絵で、富士の手前の山が明神であろうか。人間を描かず、鶴だけを登場させることによって人里離れた静かな景観を表出させている。藍と緑とわずかの朱を用いた。これも紅きらいの藍摺りである。
箱根といえば東海道中路の難所、箱根山で知られている。けわしい山道と神出鬼没の盗賊などに悩まされた旅人が、やっとの思いで無事山頂にたどり着いたとき、眼前にこのような風景が現れたのであろう。芦ノ湖とその湖上にそびえる富士の美しさに旅人は感激を秘めて我を忘れたに違いない。この作品は北斎らしからぬ非常に古風な静かな絵である。
駿河といえばすぐ茶を思い浮かべるほどに静岡の名産である。安政六年(1858)頃からは生糸につぐ重要な日本の産物として外国にも輸出された。片倉で取れた茶がなぜ良いのかというと、今でも一面の茶畑で、茶摘み娘の唄聲がきこえそうな実景を北斎も描いている。ここは太平洋の海気が東面する富士山に当たって、ゆるやかに 裾野をうるおすから、香り高い新茶が、ぬくぬくと育つのであろう。
静岡県富士市。東海道五十三次の宿駅、原から吉原へ行く途中にある。「東海道名所記」によると、このあたりはうなぎのかばやきが名物であると記している。また、沼地が多く、蘆が生い茂っていた。このあたりから見る富士山が一番いいといわれる。甲州あたりから見る富士は駄目、江戸っ子は落手に「富士山は、甲斐でみるより駿河一番」といっている。
静岡県静岡市。甲州入りの山越からくれば、いよいよ東海道へ出る。なんとなく華やいで明るい清水港は侠客次郎長で名高い清見瀉、 三保の松原 と昔から言い古された美しい名所でいっぱいだ。十二段草子の「吹上」で名高い強風のところ、人々の笠も懐紙もみなあぶなく吹き飛ばされそうだ。飛ばされぬようにと笠をしっかり抑える者、立ち止まる者、地上では、とんだことが起こっているのだが、富士は泰然としている。
静岡県富士市。沖へ出て見る。この辺を 田子の浦 といって、その風光明媚なることは、古来、歌にも謡曲にも、数多く歌われている。たとえば、山部赤人の歌に「田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不二の高嶺に雪は雰りける」がある。吹上の砂浜に人も多く、苫屋も多く描かれているのは、北斎が描いた当時の実感がよみがえって面白い。
静岡県島田市。東海道の島田宿を出て大井川を渡った向こう宿が金谷である。軍事のため、大井川には橋をかけることも船渡りすることも禁じられていた。封権主義の文明の進歩をはばむ不便さがあった。手曳渡、肩車渡、輦台渡、目溢渡等の渡渉によった。水量がますとしょっちゅう河止めとなる。富嶽三十六景は、三十六枚で打ち止めのつもりが、人気が出たものだから、追加して四十六枚となったものである。この大井川の図などは、あるいは追加の部の作品だったかとも判断される。
大井川を渡れば、もはや三河ではなく遠江である。小夜の中山や夜鳴き岩のある日坂のような山岳地帯である。その山中で、木樵夫妻が木材を切り出しているところである。材木の足場から富士がのぞいている。三角形の類似、相似等の形態の組み合わせは、北斎の好んで用いた造形だが、この作品はその自然さと構図の巧みさにおいて抽んでている名作である。
愛知県豊橋。旧名吉田。軒には「不二見茶屋」わきには「お茶つけ」「根本吉田ほくち」とある。看板を出して、富士を見ながら茶づけを食べて、帰りには吉田の名物火口(ほくち・火打石の火をうつしとるもの)を買う。マッチのないこの時代には必需品で、ここの「ほくち」は火のつきが良い名産であったのだろう。右端に腰掛けている男の腹掛と笠にあいかわらずの、西村永寿堂のコマーシャルが印されている。
尾張名古屋の原っぱ。少しく崖壁があって、そこに樹木があり、あとは、見渡すかぎり平凡な田地のつづく土地なのである。そんな背景の前に「尾州不二見原」と題して大きな丸桶を桶屋職人が、野天で悠々と造っている。こんな桶側造りの有様は、どこでも江戸の生活では、見られたであろう。其角だったか誰かの句に、「箍かけし誰か掛けかけて歸るらん」というのがある。幾何学的な丸い形態の中に、はるか遠く三角富士山が、のぞき目がねでも見るようで、たいへん面白い思いつきである。
上総は現在の千葉県。いまでは東京湾から千葉に行く海上、つまり 東京湾上である。通い船は当時でも盛んであったろう。北斎は天保十一年には上総に舟旅をしている。その前にもしばしば行ったであろうその時のスケッチをもとにこの作品がうまれたのではなかろうか。「常州牛堀」の作品があるのも、こうした折に常陸の国にも行っているようである。
登戸と言う名は、埼玉の越谷の手前蒲生にもある。私(渋井氏)の父の生地であるが海はない。ここは千葉市あたりの「のぼりと」と当時いわれたであろう。 稲毛もそうであるが、遠浅であるため潮干狩の最適地であった。画面右の丘陵の上にはなんにも見えないが、二つの鳥居が海に建てられているのは何を祭ったものかわからないし、今もあるやら、もう無いやら、成田空港のできた時代だから、おそらく今では探し当たるまい。
常陸の国は上総の北、 牛堀というのはどこか。大船を半分ほど画いて、水上生活者のありさまが画かれている。さて、この牛堀というのは、霞ヶ浦の漁場であったらしい。行徳あたりでも、つい先頃まで「青べか物語」 という映画で見たような小船生活者が多くいたようだ。大利根を中心として霞ヶ浦一帯は、羽田を飛び立った飛行機の上から見ると、やがて阿武隈山脈が見えると、海面とすれすれ、1枚の紙を敷いたような低地に関東平野一帯が見える。
山梨県。甲州の吉田から旧鎌倉往還を籠坂峠を超え、富士山の東側を三島へ下るのを、当時は「甲州三島越」と言ったのである。この道は、富士の雪が朝日でとけて三島へ落ちる。だから三島の水はきれいで、樹木はこんなに大きくスクスクと育つ。巨木の大きさを、3人も4人もかかって計っている。水気の多い谷間から強い日射を受けて、上昇気流が巻き雲のように湧き、頂上には瑞雲と弥する雲がたなびいている。北斎の造形力もすごいが心根も捨てがたい。そんな思いをさせてくれる作品である。
甲州街道の野田尻より三十一丁、下鳥沢より逆に一里六丁の場所にある峠。このあたりの街道は山間の道で視界がとざされているが、 犬目峠にさしかかって眺望がひらけ、西南の方に富士が見えてくる。足を引きずるようにして街道をやってきた旅人がふと開けた視界にやすらぎをおぼえ、遠くに富士を発見したときの得もいえぬ開放感。北斎がこの作品に表わしたかったのはそれではなかったか。
江戸時代に織物で栄えていた甲斐絹の産地として古くから開け裕福だった谷村や吉田を通り、三坂を超えて甲府入りする。北斎は、 御坂峠から見た河口湖の水面に姿を映した「逆さ富士」を描いている。ことに、陽春、桃の季節、風の無い静かな日には、よくこの「逆さ富士」がみられるという。昔の甲州は甲州猿といって山国であった。山々を越えて黒駒までくると、土地は平坦になる。峽客、「黒駒の勝蔵」の名と、甲州の山々に「のろし台」、つまり軍事的速報の跡が、ところどころに残っている。
伊沢は石和のことで、甲府へ一里十九丁、笛吹川の川岸にそった宿駅である。北斎が初めて甲州方面へ旅行したのは文政八年頃といわれているが、その確証はない。しかし旅をしていなければ、これだけの現実感は表現でき得なかったであろう。富士の山頂、かやぶき屋根を朝陽がそめ始め、夜の闇がまだたれこめている宿場を旅人が旅立って行く。笛吹川にかけられた橋も、川岸も、まだくろずんで見える。早暁石和の旅立ちである。
かじかざわは、笛吹川と釜無川が合流して富士川となる。ここはまだ高地だから急流で、ここで網打つ人はまるで海岸のようにも見えるが、富士川の水源地である。水かさの増した折には激流は逆巻き、海の波頭のように印象されたのであろう。おもしろさはその構図にみられる。猪の鼻の岩先に立つ村人の頭を頂点に、左に子どもと岩を一辺とし、そして右辺には遠網の網を一辺とした三角形が、うら富士との相似形として表現されている。
長野県にある 諏訪湖は寒く、冬は氷がはりつめる。遠くはるばるこの地にやってきてみると、ぬれ手ぬぐいが棒になる。歌舞伎にある諏訪法師の御兜を持って八重垣姫が渡って来たという戯作も、まんざら根も葉もないようにも思われない。今ではスケートができるのである。渓斎英泉も歌川広重も、諏訪の図を描いている。 諏訪神社はりっぱだし、昔はその信仰が強く、江戸にも及んでいた。これも藍摺りを基調にした作品である。
山梨県南巨摩郡。 身延山山腹に日蓮宗総本山久遠寺があり、参拝人でにぎわった。
江戸庶民には威勢のいい門徒の信者が多かった。この地は山間の多い雨量をあつめて
下り、富士川となる。ここで北斎は「身延川裏不二」と、初めて「裏不二」の名を用いてい
る。恐らく北斎のドライな誇張表現の雄なるものである。突兀とした山を彼方の富士に見
立て、峨ヶたる手前の山を表現したものである。
白雨(にわかあめ)とあるが夕立のみとは限らない。下界は大雨のようだが黒褐色で雨脚はわからない。ただ、いなずまが闇の中に光り、雷雲が明るく描かれている。この図を「凱風快晴」とちがって「赤富士」というのは、藤懸・近藤氏以来のあやまりである。かって北斎は「富嶽八體」という絵本を描くにあたって、「四季晴雨風雪霧天の造化に云々」と記している。
富士が赤く染まって見えるときは、早朝か夕方、空にうね雲があるときにかぎるといわれている。みることのかたい、それゆえに美しいを見た北斎は、わずかな色、空の青、雲と雪の白、山頂の茶と山肌の赤、ふもとの緑の五色で表現している。富士の高さと大きさ、空の広さまでも的確に表現してある。日本美術史において富士の絵は多い。しかしこの作品の右に出る富士はないといっても過言ではなかろう。
「富嶽三十六景」および、追加のいわゆる「裏富士」十枚、都合四十六枚の中で、これだけが登山山頂の岩室のありさまをえがいたものである。日本一高い山、富士山に対する信仰は古く、この登山者はみな白衣を着ている。江戸時代の人々は金剛杖をついて”六根清浄”の題目をとなえて登っていった。富士講といって宗教的なもので、スポーツ的登山とは全く異なっていた。”おはち”にびっしり身を寄せ合うようにしてうずくまる人々は、やがて朝のご来光を山頂でおがもうとする人たちであろう。